「海軍に入るくらいなら、海賊であれ(It’s better to be a pirate than join the navy)」
1983年1月、スティーブ・ジョブズがカリフォルニア州カーメルで初代Macintoshの開発チームを集めて行われた合宿のスピーチの中で語られた言葉だそうです。当時のApple社内では、大ヒットしていた「Apple II」の部門が巨大な組織(=「海軍」)として社内権力を握っていました。一方で、ジョブズ率いる少人数のMac開発チームは、官僚主義に囚われず、スピード感と反骨精神を持って革新的な製品を作ろうとする存在(=「海賊」)として位置付けられ、海賊旗を建物の屋上に掲げていたそうです。
この「海軍」と「海賊」の構図は、私が経験したかつてのGoogleにもそのまま当てはまります。今のGoogleが、勝敗が決したプラットフォームを動かす優秀なエリート達による「海軍」だとするならば、私が就職活動をしていた頃の2007年のGoogleは、間違いなく日本社会の既存の産業構造に果敢に突っ込んでいく「海賊」でした。
当時の社会を見渡せば、前年に起きた「ライブドア事件」の記憶がまだ生々しく残っていました。ニッポン放送の買収劇からフジテレビの経営権獲得を狙った同社に東京地検特捜部の捜査が入ったことで、新興ネット企業への猜疑心が社会に色濃く漂っていたのです。
そんな中、当時のGoogleは、Googleニュースで新聞社を、YouTube買収でテレビ局や大手総合広告代理店を、Book Searchで出版界を次々と揺さぶり、さらには携帯電話をスマートフォンへと置き換えようとしていました。旧来のメディアや産業からは、まさに「既存の産業構造を脅かす黒船」として猛烈に警戒されており、いつライブドアのように世論や社会からの猛反撃を食らって潰されてもおかしくない、危険な空気も確かに漂っていたと私は思います。
「海賊」が世間からまともな理解を得られないのと同じように、当時のGoogleは、領収書の宛名を頼んでも幾度となく聞き返されるほど、世間一般にはほぼ無名な存在でした。また、大学の身近な友人たちこそ、日頃から私がその凄さを熱弁していたので理解はしてくれていましたが、日系の財閥系企業に入社していくような高校時代の友人たちに内定先を告げた時は、誰もが怪訝な顔を浮かべるばかり。主な収益源が検索連動型広告だと説明すると、
「そんな検索結果の右側にある広告なんてほんとにクリックされるの?」
「トップページが空白だらけだから、あそこを広告にしたらもっと儲かるのになんでしないの?」
などと言われてしまったことをよく覚えています。入社後の私であれば「全然わかってないな」と笑い飛ばせる内容ですが、友人たちのその素朴な疑問は、入社前の私の信念を一瞬グラつかせるだけの響きを持っていました。
あれから約20年の年月が流れました。かつて、高校時代の友人に「そんな広告が本当にクリックされるのか」と首を傾げられていたインターネット広告は、検索連動型広告を皮切りに、やがて新聞・雑誌・ラジオ・テレビという「マスメディア四媒体」の合計市場規模をも凌駕する巨大な存在へと成長を遂げました。その過程は11月に発売予定の拙著『インターネット広告創世紀 Googleが切り拓いたデジタル広告革命』に記した通りです。

皇居に面した三宅坂小公園に、三人の女神の像がひっそりと立っています。正式には「平和の群像」、通称「広告記念像」や「広告人顕頌碑」と呼ばれるその碑には、日本の広告業界の礎を築き、偉大な功績を残した先人たちの名前が刻まれています。

彼らが心血を注いで作り上げた伝統と仕組みを、海の向こうからの新しい波で根底から置き換えてしまった私たちのことを、あの碑に名を連ねる先人たちは一体どう思うのだろうか——。時折、そんな思いが頭をよぎることがあります。「秩序を乱した無礼な海賊」と苦々しく思っているのか、あるいは「自分たちもかつては挑戦者だった」とニヤリと笑っているのか。彼らの胸中が、ふと気にかかります。果たして、この「広告の女神」たちは「海賊」だった私たちに微笑んでくれるのでしょうか?

私自身は、一兵卒としてただ目の前の仕事をこなしてきただけに過ぎませんが、あの時点でGoogleに入社をするということは、いずれこういう世の中になるだろうことをはっきりと予測した上でのことであり、自分の信じる未来へ舵を切ったあの日の選択に悔いはありません。しかし、かつての産業構造を置き換えてしまったその先に立つ今の自分たちが、皮肉にも新しい時代の「海軍」になっているのではないか——。そんな想いが胸を掠めることがあります。
今やGoogleは、巨大な覇権を守り抜くエリートたちによる「海軍」です。良くも悪くも、常識を疑い牙を剥き続けてしまう「海賊」の性分を捨てられない私には、残されている居場所はそう多くないように感じています。かつて、「これから世の中はGoogleを中心に大きく変わる!」と思い描いていた夢があらかた現実のものになってしまった今、「海賊」でいるだけの大義名分がもはや見当たらないのです。
既存の産業構造を置き換えたその先で、今度は自分がそれを守る側に回るのか、それとも再び新しい海賊船に乗り込むのか、はたまた船自体から降りてしまうべきなのか——。そんな思いが何度も頭を巡り、今年四十二歳を迎える私は今人生の新たな分岐点に立っていると感じています。
新しい海賊船が「AI」領域であることは疑いようのない事実です。けれど、どういうわけか、今の私の心はその荒波に全力で飛び込もうとはしていないのです。学生だった頃のように、「未来は絶対にこっちだ」と衝動的に高鳴らないのは、私自身が年齢を重ね、新しい波に対する感性が鈍ってしまったからなのか。それとも、AIという技術そのものに、かつてのGoogleが放っていた心を強く惹きつける決定的な「何か」が欠けているからなのか。その理由は自分でもまだよく分かりません。
2007年当時のインターネットやGoogleには、情報を民主化し、既存の権威を転覆させるという強烈なサブカルチャー的で反骨的なロマンがありました。一方で、現在のAI開発競争は、莫大な資本と計算資源を握る巨大テック企業、つまりすでに完成された「海軍」たちによる覇権争いの色彩が色濃く出ているように感じます。私はそこに「海賊船」ではなく「軍艦」の匂いを嗅ぎ取っているのかもしれません。
ただ一つ確かなのは、かつてGoogleという波に全身全霊で身を投じた時のあの熱量を、自分自身が誰よりもよく知っているということです。それだけに、今まさにAIに強烈に惹かれ、荒海へ飛び込もうとしている「若い海賊たち」に、今の私が敵うはずもないことだけははっきりと分かっています。時代を動かすのはいつだって、理屈を超えた衝動を胸に秘めた者たちなのですから。
